「長生き」という競技から、「より良く生きる」という芸術へ
「先生、これ以上長生きしたかて、もうしゃあないんですわ」
カウンター越しにこのセリフを聞くのは、もはや私の薬局の「日替わりBGM」のようになっています。 もちろん、決して聞き流しているわけではありません。ただ、あまりにも頻繁に流れるこの哀愁漂うメロディーに、私はいつも考えさせられるのです。
医学的な検査数値は、まるで優等生の通信簿のように完璧。 緊急入院の心配もない。 しかし、本人は「退屈」という名の慢性疾患に蝕まれています。痛み、孤独、そして役割の喪失……。天井のシミを数えて過ごすような一日が、生きる気力をスプーン一杯ずつ削り取っていくのです。
そんな時、私は心の中で自問します。 「ただ心臓が動いていること、それだけで『勝利』と言い張っていいのだろうか?」と。
実は私、こう見えて以前、京都市内のある商店街で会長を務めていた時期があります。 「薬剤師が商店街の会長?」と首を傾げられるかもしれません。ええ、私自身もそう思っていました。まあ、会長と言っても、歴史の教科書に載るような長期政権ではなく、ほんの「あわただしい一幕」を演じただけなのですが。
その短い在任期間中、経済産業省のお役人の方々と話す機会がよくありました。 霞が関のエリートですから、さぞかし難解な数式やグラフで攻められるのかと身構えていたのですが、彼らが熱っぽく語った「成功の定義」は意外なものでした。
「南さん、売上なんて二の次ですよ」
彼らは言いました。 大事なのは、そこに集まる人がワクワクしているか。隣の人と笑い合えているか。「またあそこに行きたい」という熱気が渦巻いているか。 まさかお役所の方から「バイブス(熱気)」のような話を聞かされるとは思いませんでしたが、私は膝を打ちました。
「これ、そのまま医療に使えるじゃないか」と。
日本の医療は優秀です。「とりあえず死なせない」という技術においては、間違いなく金メダル級でしょう。 しかし今、その表彰台の裏側で、救急隊も、病院も、そして現場のスタッフも、疲労困憊でゼイゼイと息切れしています。
これは単に「人が足りない」「お金がない」というだけの話ではありません。 ゴールテープの位置が、ちょっとズレている気がするのです。
もし医療の通信簿が「寿命の長さ」だけでなく、 「どれだけ笑ったか」「どれだけ人と繋がれたか」といった「人生の味わい深さ」でつけられるとしたら、どうでしょう?
薬なんて、極論を言えばフレンチのコース料理における「お水」みたいなものでいいんです。 主役はあくまで、その人の「生活」や「楽しみ」。 薬局での「調子どう?」「ボチボチでんな」という漫才のようなやり取りこそが、実は最高の処方箋になるかもしれません。
患者さんが「長生きしても意味がない」とボヤく時、 彼らは医療に喧嘩を売っているわけではありません。 「ワシを『症例データ』として見るな、『人間』として面白がってくれ!」と叫んでいるのです。
本当の医療崩壊とは、病院が潰れることではなく、 医療従事者がユーモアと「幸せ」を語る言葉を忘れた時に始まるのかもしれません。
これからは、ただストップウォッチで時間を計るような医療ではなく、 「どれだけ良い演技(人生)だったか」を採点するフィギュアスケートのような医療へ。 そろそろ、審査基準を変えてみてもいい頃合いではないでしょうか。
